当店がある高知県を代表する偉人といえば、言わずと知れた幕末の志士である坂本龍馬。
新しもの好きという逸話があり、最も有名な写真には腰のあたりから当時の懐中時計に使われていた、ゼンマイを巻き上げるための鍵が写り込んでいるとも言われています。
史実に証拠は残ってませんが、推測でウォルサムの鍵巻き式懐中時計を所持していたかもしれない、と言われています。
ブーツなど舶来物を好んでいたようで、おそらく懐中時計を使用していたという情報があります。もし懐中時計を常用していたとすれば、江戸時代の一般的な時刻の読み方とされている不定時法ではなく、現代人と同じ定時法で時間を見ていたことになります。
不定時法についてはまた別の機会に書かせていただきます。
坂本龍馬が暗殺されたのは慶応3年11月15日、自身の誕生日に中岡慎太郎とともに襲撃されたと言われています。頭部を刀で切られ、脳の損傷が致命傷になったと聞きます。おそらく襲撃からはそう長くなかったと思います。
京都霊山にある龍馬の墓碑には、十一月十六日闘死と書かれているそうです。
いろんな文献を見ていると、龍馬が襲撃されたといわれる時刻は午後8時あたりという情報が多いです。深夜という説もありますが、その場合深夜に買い出しの使いを頼む、来訪客がくるなど一連の流れそのものに違和感が出てきます。
現代のようにコンビニがあるわけでもありませんし。
あくまでも現代と違い江戸時代なので、人々の生活リズム自体が早いはずです。
即死だったようなので、もしこの時刻に殺害されたのであれば、墓碑の日付は15日が正しいという事になります。しかし墓碑は16日。
これにはいくつかの可能性が考えられます。
1、襲撃は実は翌日の16日であった。
2、午後8時ではなく10時過ぎなど当時の夜中に近く、死亡の確定が遅れた。
3、襲撃自体が真夜中であった。
4、翌日まで生きていた。
などなど他にも考えられます。
例えば上記の2と3だけで考えてみると、少し違和感をおぼえます。
舶来物好きな龍馬であることから、海援隊の仲間にも同じく懐中時計を共通の時間として使わせていた可能性があります。現に襲撃後最初に駆けつけたと言われる白峰駿馬は大型の西洋船舶を操る技術、外国人と対話できる語学力を身につけていたそうです。
であれば、西洋の時計に馴染んでいても違和感がありません。
であれば、駆けつけた時に時間を確認し、日付が変わっていたことを知っていたかもしれないのです。そうであれば、もし夜遅くに襲われている場合日付が変わっていても不思議ではありません。
しかしここにも疑問が残ります。江戸時代は現代のように、深夜12時で日付が変わっていたかというとそうとは限りません。
明るくなってから日付が変わっていたという説もあるくらいです。
当時は幕末で、鎖国中といえどもいろんなところから異国の文化が入り込んでいたと思われるので、真夜中に日付が変わるという文化があったのかもしれません。
大晦日には除夜の鐘などあるほどですから、真夜中に日付が変わっていたとしても不思議ではありません。
どちらにせよ、坂本龍馬暗殺にはまだまだ謎がありそうです。
バイヤー:合田圭四郎